2014年4月18日金曜日

【メモ】 入門!論理学 + 99.9%は仮説


個別の事例から普遍的な理論を導きだす、つまり
たくさんのデータを元にひとつの法則を編み出す、帰納。

逆に普遍的な理論から個別の事例を説明する、演繹。
演繹的推論とは、前提を認めたら(前提が正しければ)、結論も正しくなる。
前提から結論を導く、その全体が論証であり、前提から結論を導く過程は導出。

帰納はボトムアップ、演繹はトップダウンと言い換えられる。

論理学の目標
演繹的推論を整理し、体型的に捉えて、それを理論化すること

出発点となる論理法則を規定して、それを用いて様々な論理法則を証明していく体系は
公理系と呼ばれる。
出発点となる論理法則が公理。
証明された論理法則が定理。

公理系は、具体的な命題の事例を考えず、命題の型、形式だけを扱うため、
形式的アプローチと呼ばれる。
意味論は、論理法則の妥当性(判例が見つからない)を論じるために、具体的な命題の事例を考え反例があるかどうかを考える内容的アプローチ。

公理系は健全で完全でなければならない。
健全:妥当な論理法則だけを証明して、妥当ではない論理法則まで証明してしまうようなことがない
完全:その公理系は妥当な論理法則の全てを証明することができる

内容的アプローチと形式的アプローチの両方向から攻めて、健全で完全な公理系を作る

論理学の体系は基本的に完全な公理系を作ることが可能。
論理学の例
 命題論理:否定語と接続語で構成された体系
   AならばBなどの命題を扱う
 述語論理:上に"すべて"と"存在する"を加えた体系
   Fであるものが存在する。すべてGである、などのもののあり方を表す述語を扱う

ただし、
ゲーデルの不完全性定理
 ゲーデルは自然数論に対する公理系の不完全性を証明した
 自然数論でダメなら数学全体でダメなので、
 数学の公理系はどうしたって不完全でしかありえない。

数学の世界は公理系という体系に収まり切らない

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数学の出発点となる仮説は公理と呼ばれる。
そしてそこから演繹によって導かれる帰結の数々は定理と呼ばれる。
数学では、実在するかしないかは関係ないしに、仮説とその帰結を研究する。



科学のデータを集めることで進歩してきたと考えられている。はたして本当であろうか。

データは仮説(理論とも言い換えられる)をくつがえせないのではないか。

ガリレオの望遠鏡で月の表面に凹凸が見えても、
今までの仮説という枠組みから外れたデータはデータとしては機能しなかった。
事実はすべて、仮説の上に成り立っているのである。

日本がバブルの時期、土地の値段はさがらないという仮説を誰もが信じ、
それが単なる仮説であることに気がつかなかったように、
いまある枠組みに事実がねじ曲げられ、本人にはその自覚がなくなっていたように。

データは仮説を倒せない。仮説を倒せるのは仮説だけである。
しかし、古い仮説を倒せるのは、その古い仮説の仮説の存在に気づいていて、
そのうえで新しい仮説を考えることができる人だけなのです。
いうなれば、演繹法はこの条件を満たした人しか使ってはいけない方法である。

科学の定義。
科学は、証明はできなくとも、反証できるものである。


科学と心理は、近づくことはできてもけっして重なることはできない、
ある意味とても切ない関係である。

その理由として、反証可能性の問題もあるが、
科学も人間の文化活動の一環であり、文化であるからには、
時と場所によって評価が変わることもある。

今は過去になり、そして歴史になる。
科学とは、いちばん新しい仮説の集まりにすぎない。


実在論、実証論
虚数を使えば計算できる。
整合性がとれればよくて、実際に整合するための対象の実在の有無には無関心。
実在なんて関係ない。実験の結果さえ合えば実在は問わないという実証論。


質量といっても、ニュートン力学とアインシュタインの相対性理論では意味が違う。
同じ言葉であっても背景の地図が変われば別物なので翻訳できない。
これが共約(翻訳と言い換えてもいい)不可能性である。
E=mc^2のmとE=1/2mv^2のmとでは、背後にある理論が違う。
その法則自体が表す世界地図が変わってしまっているので、
同じ言葉でも意味の変換はできない。
同じ話題をしていても話がかみ合わないのも共約不可能性の簡単な例である。
言葉の使い方や意味の広がり方、あるいは、その言葉とリンクしている
別の言葉の関係などの仮設のネットワークが異なる。

客観的な唯一の仮説は思想統一なので諦める。
また、100%の客観などありえない。
ある意味、客観とは主観の寄せ集めでもある。

主観でもなく客観でもなく間主観的にモノをみることが必要である。

世の中を相対的にみる場合でも、共約不可能性を超える翻訳作業が必要になる。
互いの仮説を理解する、相手の立場になって考える、ことが間主観性である。

これにより、われわれは、相対的な世界観のもとで、強調して生きていける。